神々の座
昔、隣のトレーラーハウスに住んでいたアル中のおやじが
「お前が考えてる程、世界はお前の敵じゃねえよ。」
と俺に言ってきたことがあった。
それほど長く俺を見てきたわけでもないおやじ(そいつはケニーという名前だったが)にそう忠告されるほど、俺が周囲に向ける敵意は激しかったのか。今となっては分からない。その数日後におやじは俺の目の前から姿を消したからだ。アルコール度数96パーセントのスピリタスを片手に持ち「ドチビに祝福を!」とひとしきり笑ったあと、妙に疲れた顔をして「どうやら俺は」ーまさか焼身自殺なんてしないよな?ー「奴に会いに行く」とだけ言い、去って行った。
「奴」とはだれか、俺には心当たりがあった。ケニーが自分の話をしたのは一度だけだったが、それでも人目を忍んで誰かの墓参りに行ってるのは知っていた。自身にはとうてい似合わない花束を手に持ち、墓石の前で胡座をかいて、うわごとのように語りかける姿も。地球滅亡後に、たったひとり残された人類のような頼りげない後ろ姿も見ていた。俺の知らない長い時間、背中を丸め、そうしてきたのもしれない。
しかし去り際、最後の連れ合いに選んだのは酒だった。
俺はそのおやじの言葉を理解する前に、何もかもどうでもよくなっていたから、結局中途半端なまま歳だけを重ねた。
それでも、原因不明の怒りの火種は俺の中でくすぶっていて、ふいに身体を突き動かすことがあった。
「なぁ、知ってるか? メキシコには、神々の座っていう遺跡があるんだ。」
足場が悪いと靴が汚れるからという俺の意見より先に、エルヴィンは海に着くなり、靴は脱ぎ捨ててしまっていた。むきだしのピンク色の踵が晒され、砂は青白く光って見えた。潮風がバサバサと耳に纏わりつき、あやうく聞き逃してしまいそうな男の声をすくい取り、頭の中で反芻する。
「……あ?」
「Teotihuacan、ナワトル語で「神々の座」だ。」
年輪を刻んで、景観のいい地層は見応えも抜群だとエルヴィンは言う。現地を訪れると、そのスケールにまず圧倒される。堆積物の種類や大きさ、例えば凝灰岩があれば、近くで火山活動があったこととか。細かく見れば「大地の歴史」を知ることもできる。
今、こうして歩いてる間にも、エルヴィンは会話の途中で足を止め、自分の気がすむまで長い時間、それらを眺めた。
「そこに座れば、神様にでもなった気分になれるのか?」
言いながら俺はそこに居る自分をイメージしようとしたが、頭に浮かんだのは自分でもエルヴィンでもなく、何故か墓石の前で佇むケニーの姿だった。
振り向き様にエルヴィンは、黙ってる俺の方を見て笑った。少し照れたようなガキくさい笑顔だった。初めて人に話したのかもしれない。
「いや、お前に知ってほしいと思ってな。」
少し肌寒さを覚え、擦り合わせた自分の手の平は、肉体労働のおかげか肉指やタコが固い節目を作っていて、老木のようにガサガサと乾いていた。嫌悪感が湧いて顔を顰めた。視線を感じ、エルヴィンが見ているのに気づいて、すかさず手を引っ込めた。あまり見られたくなかった。
「………それは、例えば…」
自分でも何を言いたいのかよく分からなかったが、気がつくと驚くほど近くにエルヴィンの存在を感じたので、言葉を呑み込んだ。
そこに行けば、俺を肯定できるものを見つけられるのか?
ごく自然に、親しみを込め、肩に置かれた手から、意外なほど高い体温が伝わってきた。
ザラついた自分の素肌を包みこむような風を全身に受け、苛立ちと共に懐かしさに似たものさえ感じた。
ただの水だろ?岩だろう?そこに何がある。
俺の中に一体何があるっていうんだ。
何も無かったはずじゃあなかったのかよ。
触れられた肩先から、インクが紙に滲むように、じわりと脳みそにエルヴィンの体温がひろがる。ただの感傷が、あまりにも剥き出しすぎやしないかと不安になる。だが、その感傷さえも、今こうしてこいつの前で曝け出すことは、そんなに悪い気持ちでもないような気がした。
やがてエルヴィンが言う。
「ここは良い場所だな。」
ガキみてえに目を輝かせて。
「そんなの」
俺は肩を竦めながら、空を仰ぐ。
片方でまだ肩に置かれていたエルヴィンの手からぬくもりを感じていた。今にも身体中の力が抜け全てを傾けてしまいそうになるのを寸前でこらえていた。
「いつでも、連れて、来てやる。」
今まで気付かなかったほうが可笑しいんじゃないか? こいつの瞳の色は目の前の海と完全に同化する。
「リヴァイ。」
その先の言葉は想像できた。あまりにもの長い年月を経て発掘された化石のように、見つけられるのを一度、二度、いや何度となく諦めてしまった化石が、ようやく見つけてくれる相手と出会えたときの渇望ように、それは真っ直ぐに、強い印象を残した。
「ありがとう。」
違う。俺がそうしたいからだ。ほんとうに。そう、長い間、伝えたかった。
…ような、気がする。
置かれた手は静かにひかれ、俺は言葉を発する代わりに、海を見つめた。
その表面は穏やかに波打っていたが、底は畳のように静かなのを知っていた。
ケニーは出て行く時、机の上に写真を一枚置いていった。
それは、乾いた白い一本道の先に、かろうじて海が写っている他には、傾いた木造の電柱にたるんだ電線が引っかかってるだけの、殺風景な景色だった。
あれはあのおやじ、ケニーの、そして俺の、肖像画だったのかもしれない。
だが、俺はその写真を見た時、その白い一本道の先に、誰かが立っている気配を感じたのだ。それは偶像のように、神聖な香りをたたえて、そこに佇んでいるように見えた。
ケニーは辿り着けただだろうか。
もし、だめなら、帰ってくればいい。そのときは俺が連れて行ってやりたいと、心からそう思った。
俺を通り過ぎ、また歩き出したエルヴィンの背中を見つめる。
エルヴィン。
一歩、一歩、と距離が開くたび名前を呼びたい衝動にかられた。
エルヴィン、エルヴィン、エルヴィン。
その声はわずかに喉を震わせただけで、言葉になることなく、消えた。
end